2012年08月04日

「戦闘妖精・雪風<改>」〜人間不要の戦争に意味はあるか?

しんのすけ


前回の「虎よ、虎よ!」に続いて、ボクが読んでいなかった有名SFとして今回読んだのは、神林長平の「戦闘妖精・雪風<改>」(ハヤカワ文庫JA)だ。この作品もSFランキング的な企画にはよく顔をだしているようだが、これまではまったく食指が伸びなかった。神林長平は大昔に「七胴落とし」かなにか1、2冊読んだと思うがもちろん内容なんて憶えていない。ということで今回は、1984年に刊行された作品を2002年に若干の改訂を加えて出された「戦闘妖精・雪風<改>」という作品のことについて少し書く。

「戦闘妖精・雪風<改>」(以降「戦闘妖精」と省略)雪風とは、異星体と闘う地球軍の最強戦闘飛行機シルフィードに、そのパイロットが名付けた愛称である。したがって、<雪風=戦闘機=妖精>ということになるわけだが、最初はそのフェティッシュな感覚がよく分からなかった。しかし読み進むうちにその違和感は徐々に薄れ、終盤からはなるほどという納得感をもって読むことができた。
アンドロイド(ロボット)=非人間に対して人間が感情移入するお話はよくあるが、「戦闘妖精」はアンドロイドから人間の造形要素を取り除くことによって、より『人間vs機械』の構図を鮮明に描こうとした作品である(と思う)。アンドロイドのような人間型機械は、そもそも人間が感情移入しやすいように意図されているので、そこにはどうしても「かわいそう」などといった人間的感情がつきまとう。「戦闘妖精」では、そんな感傷的要素がかなり薄くなるので、人間対機械の関係性が客観的に描写されるというわけだ。

とはいえここで言う人間対機械の構図は、たとえば自分の乗る自動車=愛車に寄せる愛着なんかとはまったく異質のものである。戦闘機である雪風には人工知能が備わっているからだ。雪風は優秀なパイロット=主人公の深井零が操縦し、その任務や戦闘など経験を重ねることによって自らの人工知能を成長させ、やがて人間の操作なしでも与えられた目的を遂行できるようになってしまう。そうなってしまったときに、戦士である人間の役割とは何なのか、人間不在の戦争に意味はあるのか、といったことが本作に込められた主題になっている。

現実世界においても戦争・戦闘行為は無人化の傾向にあるようだ。ちょっとまえにアルカイダのNo2を、無人機攻撃によって殺害したとかいうニュースを見かけたが、テクノロジーの進歩は小説と同様に、戦争においてもいずれ人間を必要としなくなるかもしれない。もちろんアルカイダの例のように、現在はまだ攻撃側の無人化があるだけで、攻撃される対象は“人間”である。人間が(殺される)対象である限り、(殺された側の)憎悪は深まり、報復の繰り返しによる泥沼化は避けられないであろう。そのことが良いことだとはボクも思わないが、機械(兵器)による代理戦争のような状況は戦争ゲームとなって、人間のリアルな痛みを伴わないぶん、よけいタチの悪い泥沼化が待っていないとも限らない。
「戦闘妖精」の中でも書かれていたが、戦闘における人間の役割とは、兵器を操って敵戦力を弱体化させること以外に、生身の人間が敵に殺され無残な死を遂げることによって生まれる憎しみの戦意を高揚させることにもあるのであろう。人間を殺さない、殺されない戦争は、NHKでよくやっている「ロボコン」の世界となんら変わらない。それは戦争ではなくゲームに過ぎない。逆に言えば、再生不能な生命をもつ生物が死をかけて戦うことが「戦争」という行為の絶対条件なのかもしれない。

「戦闘妖精」を読んでいていちばん気になったことは、戦闘機である雪風を筆頭とした兵器類に関する叙述がやたら細かいことであった。はじめは単純に、小説にSFとしてのリアリティを強化するためとも思っていたが、そのディティールへのこだわりはそれだけでは説明できない。作者は機械のディティールを記すことで読者に何を伝えようとしたのか。あるいは単にミリタリー・フェチ的な嗜好性の問題に過ぎないのか、まったくボクには分からなかった。恋人の容姿や性格を詳らかに描く恋愛小説のように、深井零というパイロットが雪風に対して抱く愛情表現となっているかもしれないが、ちょっとボクにはついていくことのできない世界があった。

ちなみに雪風および深井零は、軍の戦闘部隊ではなく、戦闘をモニターして情報収集を担う特殊部隊に属している。戦争においては、戦闘そのものよりも情報がいかに重要であるかを意識した作者の妙である。特殊部隊の使命は“仲間を見捨てることになっても戦闘情報を持ち帰ること”。その設定からすると、非情なハードボイルド風になりそうで、キャラクター設定もそのようになっているのだが、小説からは非情はおろか暖かな人情味すら伝わってくる。そのあたりのタッチは作者神林長平の性格なのだろうが、ボクはそれを“日本的”と感じた。
以前、伊藤計劃のSF小説「虐殺器官」「ハーモニー」について書いたとき、伊藤計劃は世界レベルと評した。いま思えば、伊藤計劃が書いた小説内容が世界的であるという意味以上に、そのタッチが世界的なのだと感じたのかもしれない。言葉で表すのは難しいが、神林の文章には日本的情感が滲み出している。そのことが良いかどうかは別として、神林長平は純日本的なSF作家の匂いが強い。

「戦闘妖精・雪風<改>」は作者の思い入れも強く人気も高いようで、「グッドラック」と「アンブロークンアロー」(いずれもハヤカワ文庫JA)という2つの続編を出している。その面白さは本作以上とも聞くのでそのうち機会があれば読んでみたいと思う。本作も連作長編のスタイルで、通勤読書にはうってつけだった。テーマは重そうだがとても軽く読める、ちょっとアニメタッチなSF小説としておすすめの一冊である。

posted by なすぱぱ at 10:39 | Comment(1) | TrackBack(0) | 本・小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。

小池真理子さんの作品は読まれますでしょうか。
『闇夜の国から二人で舟を出す』というエッセイ集の中の、「さよなら、ゴブ」「一年ののち」という作品に、小池さんが愛猫を亡くされた時のことが書かれているのですが、今すぐでなくともいつかなすぱぱさんにも読んでいただきたいと思い、コメントさせていただきました。

勝手なおすすめ失礼いたしました。
Posted by 美夜 at 2012年08月07日 14:52
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