2019年04月13日

「N-50AE」〜PD-30AEも加えてオーディオ環境ひと段落。

N-50AE

ちょっと前に、流行りのpaypayサービスを使って、ROTELのRA1520というプリメインアンプを買ったことを書いた。そのとき、ついでにあわせてパイオニアのネットワークプレーヤーを買ったことも書いたが、そのときはそのモデルがメーカー在庫切れしていて、2月の初旬にようやくうちに届いた。届けられてすぐにセッティングして、以来ほとんど毎日鳴らして、すこしはこなれてきたと思うので、今回はそのネットワークプレーヤーN-50AEのことを書こうと思う。

そもそもボクがネットワークプレーヤーをマランツのMCR611から買い換えようと思ったきっかけは、一番にはもちろんアンプを別導入して音の迫力を増し、臨場感のある音を楽しみたかったからであるが、二番目の理由として機器の扱いやすさを高めたかったことがある。幸いにもボクのMCR611のCDプレーヤー部は、巷で言われているようにすぐ壊れることもなく元気で動いてくれていたのだが、ネットワーク系の操作性がとにかくひどい。ボクも最初はこんなもんかな、と思って、マランツとDALI(センソール1)の奏でる音に満足していたのだが、ネットワークはしょっちゅう切断するし、そのたびにコンセントを引っこ抜いてリセットして、さらに操作アプリもフリーズの嵐だった。だからボクは今回機器を選ぶ際に、その音質なんかよりも操作性を重視したほどである。そして選んだのがパイオニアのN-50AEという機種だった。N-70AEという上位機種もあるが、XLR接続やヘッドフォンアンプは不要だったのでコスパのよいこちらに決めた。ちなみにボクがネットで調べた限り、ネットワークプレーヤーの操作性、とくにアプリの出来ではパイオニアの一択だったと思われる(責任は持たない)。マランツはもちろん、ソニーなんかもアプリはよろしくないようだ。

PD-30AE

さて、実際にその使い勝手はどうだったのかというと・・・パイオニアにして正解だと思った。当機の操作は本体直接とリモコンとスマホアプリで可能だが、ボクは基本的にスマホでしか使っていない。ただ、使うのは電源オンオフとインターネットラジオもしくはNAS(ネットワークHDD)の選局、選曲だけ。なのでよけいにその操作性の簡便さがありがたいのかもしれないが。
たまにwifi回線が切れてしまうこともあるが、以前よりははるかに減ったし、この問題はプレーヤーだけのせいではなく、我が家のネットワーク環境にもよることなので我慢するしかないであろう。以前だったらアプリで操作していて、曲を聴いていてスマホが暗転し、復帰させて次の操作をしようと思っても接続できないことがよくあった。パイオニアの操作性は家電製品としてあたり前のレベルなのかもしれないが、ネットワークプレーヤーに関して限定すれば、このあたり前がまだまだできていないのが実情だと思う。今回ボクが褒めている当機ですら、改善の余地はまだまだありそうに思うから。

操作性はいいけど音は悪いのか? 否、ぜんぜんそんなことはないと思う。ただしこの評価は個人の好き嫌いや、現状つながっているアンプやスピーカーの個性とも関係してしまうので一概には下せない。個人的にはN-50AEというプレーヤーに癖はなく、プレーンでフラットな音質だと感じている。ぼくのような駄耳には十分すぎる美音が届けられていると思う。悪く言うとすれば、マランツを聴いていた時に感じた煌めきのようなものが減衰した気もするが、これはその音楽本来の持っているサウンドが忠実に再現されているからだと思われ、現にクラシック音楽などを聴くと、これまでかかっていたベールが1枚脱げたようで、解像感のあるリアリティは確実に増していると思う。末永く音楽と付き合っていくには、このくらい味をもたないほうがかえって良いのかもしれない。と、いまは自分に言い聞かせている。

話がそれるわけでもないが、paypayでアンプとネットワークプレーヤーをビックカメラで買ったので、当然ビックポイントが8%ついてきた。ボクはふだんBICが好きではなく、家電はヨドバシで買う人なので、発生したビックポイントを早々に使ってしまおうと、後日CDプレーヤーを買った。表題にもあるように、これも同じパイオニア製でPD-30AEという実売2万円ちょいのエントリーモデルを選んだ。CDプレーヤーといえばパイオニアが権威である、ということはなんとなく刷り込まれていて、ネットワークプレーヤーと同一メーカーであわせれば何かいいことあるかもと思って買ってしまった。結局このCDプレーヤーはN-50AEのDACでなく、当機に備わったDACを使ってアンプとアナログ接続しているので、CDP―NWP間は繋いでいない。配線も面倒だしあまりメリットを感じなかったからである。ボクは買ったGDをすぐにリッピングしてしまうので実はCDプレーヤーをあまり使わないのだが、何枚か聴いた感じでは従来より迫力と解像度は増して臨場感のある音楽が奏でられていると思った。

DALI MENUET

当ブログは備忘録なので、最後に現在の我が家のオーディオ機器構成を忘れないよう以下に記しておく。
・プリメインアンプ ROTEL RA1520
・スピーカー DALI MENUET
・ネットワークプレーヤー パイオニア N-50AE
・CDプレーヤー パイオニア PD-30AE
・NAS I/Oデータ RockDisk for Audio
・SPケーブル ZONOTONE 2200α(オーテクのバナナプラグで自作)
・電源ケーブル LUXMAN JPA-15000(アンプのみ 他は付属品使用)
・電源タップ オヤイデ OCB-1ST
・RCAケーブル モガミ2534 (CDP-AMP)
ベルデン8412 (NWP-AMP)

追記)
3年間使ったマランツのMCR611は、DVDプレーヤーなんかといっしょにテレビボードの中で眠っている。もしかしたらまたいつか目覚める日が来るだろうか。


posted by なすぱぱ at 09:55 | Comment(0) | モノ・goods | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月06日

「グリーンブック」〜差別をハッピーに描いた限界かな?

近所の草花

だいぶ前にこのブログで、「最強のふたり」という仏映画をとりあげたことがある。事故により身体が不随となった白人の富豪と、なぜか彼の介助、介護人を引き受けることとなった黒人青年の織り成すハートフルな秀作映画であった。今回またひとりで観た映画は、そんな「最強のふたり」みたいな映画らしい、と事前に上さんに刷り込まれてしまっていた。今年のアカデミーの作品賞をとった「グリーンブック」である。今回の感想は、事前に刷り込まれたことが影響してしまうかもしれないが、あまり深く考えないように感想を書いてみようと思う。

「最強のふたり」もそうだったが、「グリーンブック」も実話に基づいた話であるらしい。1960年代の初頭、NYの有名ナイトクラブ『コパ(カバーナ)』で用心棒みたいなことをしていたトニー・リップ(ヴィゴ・モーテンセン)は、ある夜客とのトラブルで職を失う。人づてにもらった求職先をたずねたトニーは、カーネギーホールに住む黒人アーティスト(ピアニスト)、ドクター・シャーリー(マハーシャラ・アリ)と面談することになるが、黒人への差別意識とプライドからその話を断ってしまった。夜中にトニーの自宅に電話してきたシャーリーは、トニーの妻を説得し、ついにはトニーもその仕事を承諾することになる。そして、付添ドライバーとして2カ月にわたる、Deep South(米国南部)をめぐるコンサートツアーがスタートするのだった。

ココ

観終わって、「最強のふたり」と似ているとあらためて思った。全体がコミカルタッチでまとめられていることや、一方がエリートでリッチマン、他方は俗まみれでプアマンという設定、そして最初ウマが合わなかった二人がしだいに打ち溶けていくプロセスなど、とてもよく似ている。ただ、この手のお話は他にも探せばたくさんありそうで、やはりオスカー作品だった「ドライビングMissデイジー」なんかも類似性は高いと思われる。

とはいえ本作が他の類似作と異なるのは、トニーとシャーリーはただの個人ではなく、白人と黒人を代表する人物になってしまっていたことである。ここで大事なのは、物語の必然としてなっていたのではなく、実話の偶然としてなってしまっていたこと。本作は黒人と白人の確執を描くためにわざわざつくられたのではない。もし完全に作られたフィクションだと、「グリーンブック」のような物語はうそ臭く、わざとらしくなって鼻についてしまいがちだ。しかし本作は、ある程度の事実を約束されているので、観客は素直に受け入れるしかない。
人種(黒人)差別という、いまだにセンシティブな扱いが求められるテーマなのに、本作は実話でコメディタッチでまとめることによって、万人に楽しめる社会派映画に仕上がっていると感じた。「最強のふたり」と「グリーンブック」の最大の違いは、前者がヒューマンドラマであるのに対し、後者は図らずも社会派ドラマとしても成立していることだと思う。

しかしそれでも、「グリーンブック」に対する社会的批判は強いようだ。たしかにボクも本作を、ハリウッド的で白人至上主義の視点から描かれる偽善的匂いを感じないでもなかったが、単一民族で小さな島国に棲むボクごときでは、そこまでシビアに観ることはできず、本作のオスカー受賞は至極まっとうな評価だと思った。すくなくとも、昨年の「シェイプ・オブ・ウォーター」よりも社会的意味のある、分かりやすいオスカー授与となったのではないか。 黒人が観たときに不快感を与えるようでは問題だが、本作は黒人が観てもそこそこ満足できるようだと、監督インタビューをちらっとみてそう感じた。
人種(黒人)差別を正面から扱うならば、ビリー・ホリデイで有名な「Strange Fruit(奇妙な果実)」のような世界観、黒人側からのメッセージ性、漆黒の歴史の闇を暴く覚悟がないと表現することは無理であろう。数分間の音楽であればそれも可能かもしれないが、2時間の映画ではあまりに重く、人々の鑑賞に耐えられるような作品ができるとは思えない。まったく難しいテーマである。

ふくまろ

映画とはほとんど関係ないが、「グリーンブック」を観ていて強く思ったことがある。本作の主人公トニー・リップはほとんどチェーン・スモーカーであり、主役なので出演シーンももちろん多いが、そのほとんどで煙草を咥えていた。ボクはこんなにタバコを吸う男の映画をこれまで観たことがない、たぶん。最近は喫煙シーンにクレームをつける嫌煙家団体のことをうっとうしいと思っていたボクだが、そんなボクですら、喫煙者であるボクですら、ちょっと喫煙シーン多すぎじゃね?と密かに思った。主人公をコメディっぽくキャラクタライズするための過剰演出なのかもしれないが、運転中にフライド・チキンをバカ食いするシーンとともに、個人的にはあまり好きになれないポイントであった。このあたりはこの映画の監督ピーター・ファレリーの感性だと思うのだが、個人的にはこの監督をボクはあまり好まないかもしれない。(本作は映画全体として例外になる?)

最後に、ボクはアカデミー賞の権威をあまり感じていないが、『何でこれが?』と思うことはよくある。今年の主演男優賞は、「ボヘミアンラプソディ」でフレディを演じたラミ・マレックが獲ったが、「グリーンブック」を観ると、ヴィゴ・モーテンセンでもよかったのでは?と思ってしまう。ヴィゴの演技を図抜けてすばらしいとは思わなかったが、だらしのないイタ公に見えるよう、自らの身体を太らせお腹をだぶつかせて醜く変えた彼は、フレディの仮装をしたラミよりもずっとよかったとボクは思う。マハーシャラ・アリが年月を経ずに2度目の助演男優賞を獲ってしまったので、本作からはこれ以上演技賞をだせなかったのだろうか…ヴィゴ残念。


posted by なすぱぱ at 09:46 | Comment(0) | テレビ・映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月23日

「まるで天使のような」〜いいかげんな感想で許して…。

ココ

前回掲出の読書感想(「黒い天使」)からあまり時間もたっていないが今回も読書感想を記す。このブログは読むのに時間のかかる読書感想文の合間合間に、何か書きたいことができたときにはその掲出を優先するので、すでに書かれている読書感想文は先送りにされる。だから前回の読書感想はけっこう前にすでに書かれていたものなので、今回の感想文との間には実際かなり時間があいているものである。ボクの読書は相変わらず遅々とした読み方しかできていないので、この先も気長に読書感想は続けていくつもりだ。

今回も、最近のマイブームとなっている黒原敏行翻訳ものを読んだ。今回読んだのは、マーガレット・ミラー著「まるで天使のような」(創元推理文庫)という小説である。ボクは彼女の小説をこれまで読んだことないのだが、マーガレット・ミラーはあのロスマクこと、米国を代表するハードボイルド作家ロス・マクドナルドの妻であるらしい。そのことは本書の読後に知ったことだが、あらかじめ知っていたらいまと違った読み方になっていたかもしれない。まぁ知らないほうが余計な雑念なく、素直に作品と接することができてよかったと思ってはいるのだが。

クララ

いきなりではあるが、今回の感想を書くのはとてもむずかしい。ギブアップである。はいおしまい。としたいところだが、せっかく読んだのだから何か書き残そうと思う。という理由で、今回は“あえて”いいかげんな読書感想を書いてお茶を濁そうと思っているのであしからず。

「まるで天使のような」という小説の主人公はジョー・クインという。クインはのめり込みタイプの素人ギャンブラーであり、なぜか私立探偵の免許をもっている30代の男だ。そんなクインは、リノのカジノですってんてんになり、カジノで知り合った男の車で、クインが金を貸している(返してもらえそうな)知人がいる町まで送ってもらっていた。ところが車の男は、自分都合でクインを荒地の真ん中で放り出し、近くに新興宗教のコミューンがあるからそこに行って助けてもらえ、とアドバイスを残して去って行った。<塔>と呼ばれる新興宗教のコミューン施設になんとかたどり着いたクインは、そこで一宿一飯の世話になるのだが、対応した修道女から奇妙な頼みごとをされる。チコーテという町でオゴーマンという男がいるかどうか確かめてきてほしいというのである。一宿一飯の恩義に応えるというわけでもないが、なんとなく好奇心に駆られたクインは、修道女から120ドルをもらって仕事として請け負い、オゴーマン探索をはじめるのだが・・・・。

この小説が書かれたのは1960年代はじめ、いまから50年以上前の作品だが、読んでいてほとんど古さは感じなかった。黒原訳の術かもしれないが、ハードボイルドタッチだけどどこか軽妙な主人公クインのキャラクターが奏功して、物語全体をわりと明るく現代性を感じさせるものにしているのだろうと感じた。物語の大きな要を成す新興宗教コミューンの描写にしても、湿っぽくおどろおどろしくなることなく、米国西海岸のカラッと乾いた空気を感じさせて、読んでいて重苦しさを感じさせずさらっと軽く楽しく読むことができたように思う。それが作者の作風なのか、本作だけのものなのかは分からないけど。

ふくまろ

「まるで天使のような」という小説は、ハードボイルドタッチのミステリーという感じだが、ミステリーとしての主題はオゴーマンなる男の消息についてとなるだろう。しかしその消息は物語の序盤であっさりと判明し、クインが町に着いて早々にオゴーマンは5年前に事故で死んでいたことが分かる。これじゃあ話がつまらないと思っていたら、オゴーマンはなぜ死んだのかがよく分かっていないらしいと知る。雨の夜、仕事の用で車で出かけたオゴーマンは、車ごと大きな川に落ちて死んだらしいが、それが純粋に事故によるのか、自殺なのか、はては殺害されたのかまったく分からないままなのであった。しかも当時の河川は激流になっていて、男の死体も見つかっていない状況だった。

そんな状況にあってクインは、オゴーマンの妻だった女性マーサとの接触を繰り返すのだが、なぜかいつしか恋仲になっていく。本作はとてもよくできていると思うのだが、唯一この点だけがボクは合点できなかった。性格的理由から、ダメ男であったオゴーマンの妻となったマーサは、美しく聡明な女性である。しかしすでに子供も2人いて、夫の死のことを忘れたいと思っているような未亡人を、どうしてクインは好きになっていったのか。最初は事件性を疑ったクインが、捜査のためにプライベートに踏み込んだのかとも思ったが、読み進めるとそうでもないらしい。美しい未亡人なので、ふつうの男なら分からないでもないが、ギャンブラーで探偵を生業としている(たぶんそこそこの)美男が、なぜマーサに恋するのか。人の色恋なんて理屈じゃないから仕方ないけど、小説のお話だからねぇ・・・なんか納得できないものが残る。この小説はミステリとしてかなりインパクトのある類だと思うが、ボクにとって最大のミステリはオゴーマンではなく、主人公クインの恋心の行方であった。

今回はわけあっていいかげんなことしか書けなかったが、その理由は本書を読んでもらえば分かってもらえると思う。気になる人はぜひ手に取って読むべし。「まるで天使のような」はミステリーのひとつの金字塔といっても過言ではない作品である。


posted by なすぱぱ at 09:14 | Comment(0) | 本・小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする