2012年05月12日

「銀座能楽団」〜レクチャー付き、素人にもわかる能舞台。

なす


うちの上さんはボク以上にミーハーなので、流行ものに弱い。いまはひと頃ほどの勢いはなくなったものの、彼女はグルーポンやポンパレといった共同購入サイトの会員になっており、同様のサービスである「GILT(ギルト)」グループのサービスにも加入していて、日々チェックを欠かさない。GILTではブランド品など、グルーポンやポンパレとは一線を画したものを扱っていたりするようだが、今回観に行くことにした舞台も、GILTで上さんが見つけてチケットを手に入れたものであった。

「お能」についてボクはまったく無知であり、興味も世間一般レベルでしかない。田舎にいたころ、中学か高校のころに学校で観に行ったような気もするが、それも定かではなく、もしかしたら今回が初めての体験だったのかもしれない。 ということで例のごとく前置きが長くなってしまったが、今回とりあげるのは銀座能楽団という集団が開催しているイベントのことについて、GWに観に行ったときのことを少し書く。

銀座能楽団は、「お能」の普及・振興を目標として、有志が集って結成された集団なのだと思われるが、「能」をまったく知らないボクなんかが観ても分かるように、レクチャー付きでカジュアルに能舞台をみせてくれる(いつもレクチャー付きなのかどうか知らないけど…)。 開催されたのは、銀座能楽堂という街中の商業ビルの上階につくられた舞台で、客席も100席ほどと小ぢんまりとした場所であった。しかしその分、舞台と観客の距離はきわめて至近で、臨場感たっぷりにお能を濃密に堪能できるようになっている。

今回イベントのテーマは「平清盛のおもかげ」と題して、平家物語にまつわる演目を集めて披露された。イベントは昼食をはさんで一部と二部に分かれ、レクチャー公演の名のごとく、トークあり、琵琶の演奏あり、「仕舞」と呼ばれる簡易な舞台ありと多彩なメニューが並んでいた。メインとなる舞台は「袴能(はかまのう)」と呼ばれる、面や装束をつけないスタイルで『経正(つねまさ)』という演目が舞われた。NHKの大河ドラマも見ていない、日本史に超うといボクであるが、素人にも分かるように親切に(簡単に)解説されるので、何となく分かったような気になって観ることができた。そのことだけでも価値ある、とてもよくできた催しであると感心した。

さて、お能というのはなんてすばらしいパフォーマンスであり、アートなんだとあらためて思い知らされた。演者の動きの様式というかその抽象性を観ていると、日本の同じ古典芸能である歌舞伎よりも、西洋のバレエダンスを思い起こされる。歌舞伎役者は舞台でその“役”を演じるが、能の演者はその役を“舞う”のだ。 バレエのような華やかさやアクロバティックな動きは皆無だが、ときにお囃子に合わせながら、ときに自身の謡に合わせながら、決して広くはない方形の舞台をそして決して多くはない所作を組み合わせながら動く姿はバレエダンスに劣らず美しい! 言葉のないバレエと異なり、能には言葉があるので本質的にはまったく異なる芸能だが、舞踊としてのバレエ、舞踏としてのお能には何か近しさをボクは感じる。

お能とバレエの近しさは何なのか。個人的に思うのは、両者とも音(楽)のともなう舞いであると感じることだ。バレエに音楽はつきものだが、今回イベントを観ていちばんに感じたことは、お能ってなんて“音”に満ちているのかということだった。 なんとなくこれまでお能には、「幽玄」という言葉に象徴されるような静かなイメージを強く抱いていたがそのイメージは間違った思い込みだった。能舞台には、うるさいくらいに音が満ち満ちている。
子供のようで恥ずかしいが、今回生(なま)で能を観て、演者が足で舞台を踏み鳴らす足拍子(の音)には感動した。太鼓や鼓ともまた異なるその足の音(ね)は、鳴らされる絶妙な間(ま)とともにあって神秘的ですらある。単に耳に届くだけではない、心に響く音であった。

そういえば、今回のイベントでテーマのひとつでもあった「琵琶」。その琵琶が打楽器であるということを聞かされて、ひとつ目が覚めた気がした。なるほど、琵琶は奏でられるのでなく、打ち鳴らされる楽器だったのか。確かに琵琶法師の弾く琵琶は、メロディを聴かせるのではなく、(平家)物語をより印象的に語り聞かせるための“拍子”をとる楽器である。そのことが今回生(なま)で演奏を聴くことによって肌で感じることができた。それはアフリカ音楽のリズム楽器にも似ているようだ。

今回はまったく予備知識もなく、興味もそれほど強くなく観たお能だったが、思いのほか楽しむことができた。映画や小説のように気軽に手軽に楽しむことは難しそうだが、機会があればもっと観てみたいものだ。次に観るときは、面や装束を纏った本格的な舞台を観たいが(高そう!)、それだとレクチャーは付いていないので自前で少し予習していかなくてはならない・・・ちょっと億劫だけど・・・ぜひ観たい。

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2012年04月28日

「悪霊」下〜革命とは祖国を失った人間によって悪夢となる?

なす


光文社古典新訳文庫版「悪霊」(ドストエフスキー著 亀山郁夫訳)の本編全3巻を読み終えた。このシリーズは別巻として4冊目があるのだが、その内容は前回にも触れたスタヴローギンの『チーホンのもとで―スタヴローギンの告白』章に存在するいくつかの別原稿を掲載したものである。したがって物語自体は3巻で完結しており、ボクはまだ別館を読んでいないが、今回は3巻までの感想を書いてひと区切りとしようと思う。

まず第3巻のみについてであるが、1巻2巻と波乱を予想させながら徐々に盛り上がりをみせていた物語は、第3巻最終巻で一気に爆裂する。革命という悪霊にとりつかれ巻き込まれてしまった登場人物たちは次々に非業の死を遂げることとなってしまい、その死はどれも哀しく物語に救いは感じられない。いくつも重なる死の中で、作者ドストエフスキーは主人公スタヴローギンの死よりも、シャートフとキリーロフという二人の人物の死を丁寧に書いている。特にシャートフに関しては、亀山郁夫も解説で書いているように作者の思い入れは強いようで、それ故にもっともむごたらしい非業の死にふさわしい死を与えられていると感じる。
またそれは非業の死であるだけでなく、革命による死を象徴する出来事として「悪霊」全体のモチーフともなっており、そもそも作者はネチャーエフ事件という現実にあったリンチ殺人事件に発想を得て物語をつくったので、その思い入れはあたりまえと言えばあたりまえなのであろう。スタヴローギンという悪魔に魅入られると同時に、自らの思想の種となる観念を吹き込まれてしまったシャートフ。結婚した女性(マリー)はスタヴローギンと密通し、スタヴローギンの子を宿して彼の元に戻ってくるが、シャートフはそんな彼女をも盲目的に受け入れて、マリーの出産に奔走する。革命という観念を捨て、やっと現実的な人間の生活に目覚めようとした彼だが、生まれる赤ん坊の顔を見ることもかなわず五人組と言う革命組織に、その首謀者ピョートルに殺されてしまう。

解説でも書かれているように、「悪霊」はロシアに起こった革命ムーブメントを戯画化して物語をつくっているので、実はシャートフの死の意味は軽い(とボクは思う)。彼は苦悩した末に死んだのでもなければ信念を貫くために死んだのでもない。しかも革命組織にとって本当に危険だったわけでもなく、大きな裏切り行為をはたらいたのでもない。五人組という組織の結束力を“殺人”という罪の意識を共有することによって強く固めようと、ピョートルが勝手に仕組んだだけである。だがその死の無意味さゆえに余計シャートフの死は哀しい。革命による死とは、裏を返せばこんなものなのだと、ドストエフスキーは痛烈にシャートフを通してメッセージを投げているようである。

むかし日本に浅間山荘事件というのがあって、連合赤軍を主体とする革命組織の凄惨なリンチ殺人が世を騒がせた。組織に属するメンバーが、総括という名の自己批判の末、他のメンバーからリンチを受けて粛清されてしまうということだったと思うが、10名以上が犠牲になった。ボクはその事件を詳しく知らないが、その実態はリーダー格のメンバーの個人的感情に起因していた(場合が多かった)と聞く。革命という理想、理念に基づく裁きではなく、組織を存続させるための恐怖政治。“革命”という旗印は輝かしい響きを伝えるが、世の中(歴史の中)の多くの革命的なものは、かえって醜悪な実態を秘めているともいえる。「悪霊」は140年前に書かれた作品だが、いま読んでもそれほど古臭さを感じないのは、世の中が逆にそれほど成長していないことの証しなのかもしれない。

今回「悪霊」を読んでいて、革命を志す登場人物たちの原動力は何なのかをなんとなく考えていた。現状の政治や社会に対する不満から生じていることは読むまでもないが、ドストエフスキーが描こうとしているその原動力は単なる不平不満ではなさそうである。では何なのか? 読んでいる途中からなんとなく「これか?」と思っていたことが、亀山の解説を読んで「やっぱりこれだ」と思ったこと。それは祖国に『根』を持っているかどうかということであった。
どれほど祖国への不平不満が強くても、それだけでは革命といった行動までに至るものではない。逆に、祖国に根を持たない人間は安直に革命行動に走ってしまいがちだ。ドストエフスキーは、革命的行為を非難しようとして「悪霊」を著したのではなく、その時代に流行ともなろうとしていた底の浅い革命のことを、パロディとして描くことによって祖国へのつながりの大切さを訴えたかったのではないかと思った。
以前、そのものずばり「根をもつこと」というシモーヌ・ヴェイユが書いた本(岩波文庫、冨原眞弓訳)をとりあげた(内容はあまり理解できなかったが・・・)。その本の中で、ドストエフスキー「悪霊」のことに言及していたかどうかまったく憶えていないが、彼女が「根をもつこと」を執筆したとき、少なからず「悪霊」は参考テクストとして彼女の頭のどこかにあったに違いない。と、「悪霊」を読み終えてなんとなく感じた。ヴェイユが祖国フランスを憂いていたように、ドストエフスキーもロシアを憂いている。

「悪霊」とは、革命を主題とした物語というより、“祖国”を見つめなおすために書かれたものであると、今回読みなおして感じた。そこに書かれているのは祖国一般論ではなく、ロシア固有の感傷かもしれないが、世界に共有できるなにかを含んでいる。宗教的(キリスト教的)要素も強いので一概には言えないが、グローバル化の進む(祖国の観念の薄れていく)現代だからこそ、あらためて読む価値のある物語かもしれないと思った。

posted by なすぱぱ at 08:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本・小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月21日

「American Idol」〜I also think you may be the One, Jessica!

しんのすけ


最近このブログでは映画や小説以外のことをとりあげていないが、書きたかったことがまるで無かったわけではなく、単にネタを書く時間がとれなかったので書いていないだけである。しかし、このネタはどうしても書き残しておきたいと思ったので、今回はCATVでやっているテレビ番組のことをとりあげようと思う。
「アメリカン・アイドル」というリアリティ番組のことは、以前にもちょっとだけ何回か触れているが、あらためて説明するとこの番組は米国版「スター誕生」である。素人参加者がNHKの「のど自慢」よろしく自慢の歌を競い合い、チャンピオンを目指すのだ。ただ、そこはアメリカ、日本のオーディション番組なんかとはケタが違う。予選参加者は毎年10万人が全米から集まり、本選に進んでTOP10ともなれば日本のへなちょこPOPシンガーなど足元にも及ばないほどのレベルとなる。審査は視聴者投票なので、歌がうまいだけでは勝ち進むのも難しいが、全米の視聴者はすくなくとも日本の視聴者よりもずっと大人なので、見てくれの良し悪しだけではぜったい勝ち残ることはできない。

と、前置きが長くなったが、今年は「アメリカン・アイドル」シーズン11を放送している。ボクがこの番組を見始めたのはシーズン5か6で、これまでも十分に面白く楽しませてくれたことは間違いない。しかし・・・・・今シーズンはスゴイ。 これまでも自分好みの出場者はいたし、彼らもそれなりにオリジナリティと歌のうまさをもっていた。しかし、今シーズンの出場者、なかでも16歳の少女と21歳のギター野郎は群を抜いている。ボクがこれまで見てきたシーズンを総合しても、そのスター性はズ抜けていると思う。

16歳の少女の名はジェシカ・サンチェス。たぶんヒスパニックなのだろうけど、容姿はチャイナ美少女的な雰囲気ももっている(ルーシー・リュウに少し似ている)。彼女がちょっと前に歌ったホイットニー・ヒューストンの「I will always love you」(あの「ボディガード」の主題歌)は絶品であった。日本の放送では先週歌った「Sweet Dreams」(歌姫ビヨンセの曲)も美しくよかった。とにかく彼女は何を歌わせてもウマイ!
ボクは今シーズンの優勝は彼女しかいないと思っているが、たぶん優勝なんかしなくても相当ビッグなタレントになることは間違いないと感じる。だって、番組に出ている大物プロデューサーのジミーも、審査員のスティーブン・タイラー(エアロスミス)も彼女にゾッコンである。プロデビューできないはずがない。
(再生回数300万回!を超える彼女の映像)


いま書いたようにボクは今シーズン、ジェシカの優勝を願っているのだが、それ以上にもしプロデビューしてアルバムを出したら、絶対買うだろうと思っているのがもうひとりのお気に入りフィリップ・フィリップスだ。音楽をあまり知らないボクは彼のスタイルをなんと表現してよいのか分からないが、唸り声にも似た独特のグルーブ感とブルージーでソウルフルな歌いっぷり、そしてギターを上のほうに抱えて構えるその姿は、完全にボクのツボにはまってしまった。彼は地方予選のときからTOP3は間違いないと確信していたが、本選にはいってますます存在感が際立っている。なにを歌ってもフィリップ節となってしかもカッコいい! スティーヴィー・ワンダーの「Superstition」なんて、本人以上にクールだと思った。これまでアメアイ出身者(プロデビュー者)のCDなんて買うまでしたことはないが、彼が出したら間違いなく買ってしまうだろう。そのくらい彼は好きなシンガーである。
(たぶんTOP3くらいで脱落してしまうのか?フィリップの映像だ)


現在番組は(日本では)TOP8まできている。先週TOP9の歌が放送されたわけだが、先週回は特に圧巻だった。もしかしたらジェシカと優勝を争うかもしれないコルトンはいまいちだったが、最後に歌った4人、ジェシカ、フィリップ、ジョシュア、エリーズは、これまでの番組のレベルを超えて、みなエキサイティングにホットな歌を聴かせてくれた。
特に最後に歌ったエリーズ。これまでブルージーでジャズっぽい曲をハスキーな歌声で披露してきた彼女だが、彼女が今回歌ったのはなんと、レッド・ツェッペリン!の「Whole Lotta Love」!! 曲名が紹介されてすぐ、これはいくらなんでも無理じゃネ?と思ってしまったのだが、とんでもなかった。ロバート・プラントしか歌いこなせないと思われた曲を、エリーズは見事に歌い切った、しかもむちゃくちゃキマッてた! 先週回に関しては、ジェシカでもフィリップでもなく、エリーズが光り輝いてすばらしかった。
(フリートウッドマックのスティーヴィー・ニックスもべた褒めの歌を聴け!)


まだTOP8だというのに、今年のアメアイはクレイジーである。ボクがこれまで一度も欠かさず見てきた何年間かのアメアイの中で、上記の先週回、そしてホイットニー・ヒューストンとスティーヴィー・ワンダーがテーマだったTOP13の回は、抜きんでてデリシャスだったと思う。このあとどんな曲を聴かせてくれるのか、ホントに楽しみである。
今回はちょっと興奮気味で書いてしまったが、もしFOXテレビでアメリカン・アイドルが見れるのだったら、今年の放送は見て損はない。もしかしたら来年にはBIGスターになっているかもしれない少女の、初々しいデビュー前の姿を目撃することができるのだから・・・。

posted by なすぱぱ at 10:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | テレビ・映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする