2019年11月30日

「ジョーカー」〜アンチヒーローでなくアンチヒール映画?

ふくまろ

アメコミ映画が全盛である。「スパイダーマン」や「アベンジャーズ」など、次から次へとシリーズ作品が公開され、興行的にも成功しているようだ。ボクは年を食って、映画館そのものにもあまり行かなくなったが、眼を悪くしてからはさらに行かなくなった。とくに動きの激しい映画は眼がついてゆかず、いつかTVで「スターウォーズ」をチラッと観たが、観るのが辛くてチャンネルを変えてしまったほどである。 そんなボクが今回映画館で観たのは、「ジョーカー」というアメコミ実写映画。アメコミとはいっても本作は派手なアクションシーンなどは一切なく、エンターテインメントではあるものの、ほとんど社会派サスペンス、ヒューマンドラマといった感じに仕上がっている。とてもとてもよい映画だと思った。大したことではないが、『キネ旬』2月下旬号でもかなり上位評価にランキングされるのではないだろうか。 ということで今回は、ホアキン・フェニックス主演の「ジョーカー」という映画の感想をちょっと書く。

かつて「バットマン」シリーズとして、クリストファー・ノーランが監督した「ダークナイト」という映画があった。それまでのシリーズ作品のみならず、いわゆるアメコミ映画とは一線を画するシリアスなタッチでヒーローを描き、観た当時はボクもかなり心が動いた映画であった。 「ダークナイト」は、主役のバットマンをアンチヒーロー的に扱って、それまでのお気楽な勧善懲悪ものとはなっていないのがとても好ましかった。そして何といっても悪役ジョーカーを演じたヒース・レジャー(故人)が最高だった。ヒース・レジャーのジョーカーなくして「ダークナイト」の成功はなかった、と断言できる。 今回の「ジョーカー」は、感覚的にはヒース=ジョーカーの流れをくむものだと思う。「ダークナイト」で描かれたジョーカーはどのように誕生してしまったのか、なぜ執拗に社会に反抗しバットマンを目の敵にするのか…。「ジョーカー」という映画は、もちろん単独で観ても十分楽しめる作品だが、できれば「ダークナイト」を観ておいた方がより楽しめると思う・・・おおきなお世話だけど。

ココ

「ジョーカー」という悪の華はどのように咲いたのか・・・はさておいて、主役のホアキン・フェニックスはヒース・レジャーに負けずに素晴らしかった。ヒース・レジャーはヒール(悪役敵役)であり、ホアキン・フェニックスはタイトルロール(主役)なので単純に比較はできないが、もしかしたら<狂気>をすでに身に纏(まと)ったヒースよりも、いままさに<狂気>を発芽させようとするホアキンのほうが、狂気へのプロセスを追体験しなくてはならない分だけ演じるのは難しかったかもしれない。 ホアキン・フェニックスにヒース=ジョーカーへの(対抗)意識があったかどうか分からないが、仮にあったとしても本作を観る限り、それは完全に払拭されたホアキン=ジョーカー像が創られていた(と思う)。

映画は(ダークで)ボク好みであり、主役もよかった。なのだがボクは感動するまでには至らなかった。何故か。 個人的にそのように感じた理由は、ジョーカーの造形に納得感があり過ぎたからだと思われる。青年アーサーがジョーカーへと覚醒するために用意された理由。貧困であったり格差社会であったりシングルマザーという家庭環境、果ては精神障害だったり虐待だったりと実にさまざまな理由が用意されている。アーサーはそれら理由が複雑に絡みあってジョーカーという人格に目覚めるのだが、個人的にはそれら理由がどれも形式的にすぎて感じられ、それではもっと何人ものジョーカーが生まれてしまうのではないかと思ったのだ。事実、映画の中でも、子どもだったブルース・ウェイン(未来のバットマン)の両親を殺すのは、ホアキン=ジョーカーではない一般暴徒=ジョーカーであった。

ということはこの映画、ホアキン・フェニックス演じるスペシャルなジョーカーを描きたかったのでは(だけでは)なく、ジョーカーなる<悪>を産み出す歪な現代社会の怖さを描きたかったということかもしれない。ホアキン=ジョーカーは、数多に出現するジョーカー的な反社会的人間たちを象徴するエンペラーということなのか・・・?

しんのすけ

話を元に戻す。ボクは何故「ジョーカー」に感動するまでに至らなかったのか。前述のようにボク的な解釈では、当映画は社会派ドラマの色が濃い。しかし「ジョーカー」では社会派ドラマには不十分である。ジョーカーという造られたキャラクターは、どんな迫真の演技をしようとそのリアリティは薄いからだ。 ボク個人としては、せっかくホアキン・フェニックスがいい演技しているのだから、ジョーカーを<象徴>に祀りあげるのではなく、徹底的に個性化した悪の化身像として見せてほしかった。たぶんそれでも、現代社会から生まれる悪の象徴性は保たれて、観る人(ボク)にもっと深い心の引掻き傷を残したと思うのだが・・・。

といったことを映画帰りの道すがらぼんやり考えていたのだが、そんなことを考えるのも「ジョーカー」という映画がとても気に入ったからである。
ジョーカーとなるアーサー青年は、脳の傷害によって(?)突然突発的に笑い出すという病症を持っている。多くの人にとって笑いは幸せを呼ぶ仕種となるが、アーサーにとっては災いの種になるばかりである。ジョーカーに固有の(?)この障碍を、映画では繰り返してエピソードを重ねることによって彼を個性づけている。アーサー=ジョーカーのアイデンティティといってもよいであろう。 楽しさや喜びとは無縁の<笑い>、原因も対象もない虚無に向けて放たれるジョーカーの<笑い>はあまりに哀しい。そしてボクはジョーカーのそんな哀しさを、たまらなく愛しいと感じた。


posted by なすぱぱ at 08:26 | Comment(0) | テレビ・映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月23日

「トリスタンとイゾルデ」MET版〜死んで成就する愛の究極。

ココとしんのすけ

突然だがワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を観てしまった。別に悪いことをしたわけではないが、ほんとはワーグナー・オペラの最後に観ようと思っていた。ところがWOWOWのMETオペラで当作が放映され、気軽に観れることもあって、録画したものをつい観てしまったのだ。以前観て挫折した「トリスタンとイゾルデ」は、1983年のバイロイト公演の映像だったが、今回観たのは2016年にMET移転50年の記念公演オープニングの演目で、サイモン・ラトル指揮、新演出でのプログラムだった。

ワーグナー・オペラにもかなり慣れ、新演出ということも影響したためか(かなり現代風)、今回は無事に観終えることができた。正直に言えば途中で眠気を催すこともすこしあったが、ほぼ全編を堪能することができたと思う。『堪能』というのはちょっと言い過ぎかもしれない。『面白かったか?』と問われれば、これまで観たワーグナー作品ほどではなかったからだ。 ただし、本作は物語(話の筋)の面白さを楽しむものではなく、トリスタンとイゾルデの激烈な心模様とその変転を二人が唄う歌詞に見出しながら、理解するのでなく感得するオペラであると思う。なので、はじめて、1回観たくらいでは、その奥深さを味わうことなど、ボクのような凡人には無理である。繰り返し観て、唄われている言葉の意味を吟味し、自分なりに解釈しなくてはならない。オペラという様式の中で、ワーグナー作品は全般に形而上的な色が濃いと感じるが、その中でもこの「トリスタンとイゾルデ」は観念的、哲学的傾向が極めて強いと感じられた。

ふくまろ

今回はじめて(まっとうに)「トリスタンとイゾルデ」を観たわけだが、前述したように今回は全体像と話の筋を追うことでいっぱいいっぱいだった。二人の歌に込められた意味や感情の襞を聴きとる余裕もなく、ただひたすら物語を理解するために和訳の文字を追いかける。それでも全編を観終わって、いろんなことが頭を駆け巡ったが、物語として気になったことのひとつに、ブランゲーネの行動の謎がある。

ブランゲーネはイゾルデの侍女で、トリスタンを異常に気にするイゾルデのことを気遣い、マルケ王に嫁ぐ船中では彼女を諌めながら世話をしている。ブランゲーネは祖国アイルランドの平和のためにも、イゾルデ姫が無事コーンウォールのマルケ王に嫁ぐことを望んでいた(はず)。しかしイゾルデからトリスタンにまつわる因縁話を聞くに及んで姫に同情してしまった(と思われる)。そしてイゾルデから『死の薬』を命じられたにもかかわらず、二人に『愛の薬』を飲ませてしまう。
一国の王女に仕える侍女にしては軽率に思われるが、それ以上にブランゲーネは何をしたかったのかがよく分からない。『死の薬』で二人の(隠された)愛を成就させるのではなく、『愛の薬』によって二人の愛を目覚めさせ活性させたのでは、後に待っている災厄は火を見るより明らかなはず。『軽率』の一言で済ませられるかもしれないが、結局トリスタンとイゾルデを死に追いやったのはブランゲーネ自身なのではないか。
『愛の薬』も『死の薬』も結局は二人に死をもたらす。ブランゲーネはそのことを知っていた確信犯なのだと思う。どうせ死ぬなら、多少なりとも現世での愛を謳歌させて死なせたい、とイゾルデの忠臣ブランゲーネは考えたのかもしれない。

「トリスタンとイゾルデ」は、音楽的にもエポックメイキングな作品らしいが、その前奏曲と最後の『愛の死』はつとに有名である。『愛の死』という小題は直訳なのだろうかそれとも意訳なのか。劇のラストでトリスタンが死に、愛の片割れを失くしたイゾルデが絶望を唄う曲名として『愛の死』というのは秀逸な名づけだと思う。
それはそれとして、「トリスタンとイゾルデ」というオペラが全編を通して伝えようとしているのは、『愛の死』ではなく『愛は死』ということ。二幕の有名な『愛の二重唱』の中でも、二人が溶け合って一体となりこのまま死んでしまおう、みたいな歌詞もみられたように、哲学好きなワーグナーにとって究極の愛は死ぬことであるようだ。まぁしかし、『愛の二重唱』は官能的なSEXの情景を暗示しているようでもあり、そこで唄われる『死』とは擬似的な死=エクスタシーを表現しているだけかもしれないけど・・・・。

しんのすけの祈り

今回観たMET版「トリスタンとイゾルデ」は、現代的アレンジはあってもオーソドックスな演出のように感じられて、観ていて大きな違和感はなかった。しかし、個人的にはイゾルデ役の歌手があまり好きになれなかった。歌そのものはおいといて、その演技がちょっと・・・年齢的なものも含めて迫力があり過ぎるようにボクには感じられた。王女としての威厳を誇示するのは必要だと思うが、あの迫力は別もののような・・・。それとともに気になったのがやはりブランゲーネ役の歌手。これは演じた本人ではなく演出の問題かもしれないが、今回のブランゲーネはイゾルデに献身的に仕えるという感じがまったくしなかったのだ。ボクが前段で書いたように、彼女を本作のフィクサー的にとらえるならばそれでもよいかもしれないが、さすがにそれでは物語の軸を歪めてしまいそうである。彼女に与えた演出家の演技意図がよく分からなかった。 ちなみに上さんはトリスタン役のことを気に入らなかったようである。単に見た目だけの問題のようだけど。

さて本作は前言したように、繰り返し観ることによって解釈は深まり、別の観方も生まれてくると思われる。オペラは演出やソリストによっても印象は大きく変わるので、本作ではよけいである。いつになるか分からないが、1983年バイロイト盤を観たらまた感想を書こうと思う。そのときどんな感想を抱くのか、自分でも楽しみである。


posted by なすぱぱ at 09:23 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月09日

「蜂工場」〜奇妙な感触を持った男性向けミステリ?

しんのすけ

ひさびさの読書感想。今回読んだのはスコットランド人作家イアン・バンクスの書いた「蜂工場」(集英社文庫 野村芳夫訳)という小説だ。この本はボクが選んで買ったものではなく、うちの上さんが買って読んでいたものである。上さんによれば『評判がよかったので買って読んでみたが最後まで読めなかった』ということだった。くわしくは聞かなかったが、どうもかなり自分の趣味には合わなかったようである。ミステリっぽい作品で、「蜂工場」というタイトルがちょっと興味を曳いたので、上さんに代わって読んでみることにした。

小説は16歳の少年フランクの一人称で書かれている。彼はスコットランドの、陸地から橋で渡れるくらい近くにある小さな小さな島に住んでいる。島は父親が所有し、彼は父と二人だけで暮らし、週に一度本土からお手伝いの老婆が通ってちょっとした世話をする。彼には異母兄がいるが、兄は精神病で遠くの施設に収容されていた・・・

と、こんな感じの設定なのだが、物語は冒頭からフランクの異様な性格、行動が際立って、読者に嫌悪を抱かせるようなエピソードが続いていく。彼は島を外敵から守るために魔術的に支配しようとし、島のいたるところに呪術的な仕掛けを設けている。そしてそれら仕掛けにはネズミやウサギなどの頭部・身体各部を用い、そのために彼は島でそれら生物を捕獲して解体したりしているのだ。 そのことと関係しているのかどうか、彼の兄(エリック)が精神病院に入っているのも、本土の町で飼われている犬にガソリンをかけて火をつけたり、子どもの口に蛆虫を詰め込んだりと、異常な行動が重なったためであった。

物語は一本の電話によって動きだす。ある日エリックから『いまから帰る』と連絡があったのだ。彼はすでに病院を抜け出しているようで、盗みなどの犯罪を繰り返して島に近づいてきている。エリックの電話にフランクは慄き動揺するが、兄を慕って会いたがっているようでもある。いったいフランクと彼の家族にはどんな秘密が隠されているのか・・・読者は普通ではない16歳の少年に振り回されながら、日常とは薄皮一枚隔たった異世界を追体験することになる。

ふくまろ

この小説、出版側ではニューホラーというふれこみで宣伝しているようだが、ちょっとしっくりこない。ボクはハナからミステリとして読んでいた。読み終えた今もその感覚は大きく変わらないが、ちょっと純文学しているかも、と感じている。どこが純文学なのかと言われても、ネタバレにつながりそうなのでくわしくは書かないが、「蜂工場」は少年フランクの心のひだを、ややエキセントリックではあるが上手く表現しているように感じるからである。ただし「蜂工場」は男向けの小説かもしれないとも思う。それはフランクの小動物に対する残虐性が、女性の場合とくに嫌悪される要因となり、近年(無差別殺人)犯罪者にも共通するような人間性の薄いキャラクター造形に起因していると思う。個人的にボクが本書に文学性を感じたのは、以前読んで心動いたゴールディングの「蠅の王」にちょっとだけ近しさを感じたからでもある。

タイトルとなっている「蜂工場」は、それが描かれている文章から読み取るのも辛いが、古い大時計の文字盤を台座にしてつくった神託マシンのようなものであろうか。 入口から入った(入れられた)蜂は、文字盤上の迷路をさまよい、最後に自身の運命を選ぶ。出口に待っているのは火炎地獄であったり水難地獄であったり、いずれにしてもどの出口から出ようと蜂には死が用意されているだけ。主人公フランクは、蜂が行き着いた処刑場の象徴する要素(火とか水とか)によって、彼自身に待ち受けるであろう災厄や僥倖を占うのである。
作者はなぜ『神殿』的なワードではなく、『工場(factory)』という文言を用いたのだろうか。 たぶん<蜂>そのものに神性を与えたくなかった、<蜂>は神託の道具に過ぎないことを明示したのであろう。小説中には作者のそのような『無味』があふれており、そこに『愛』を感じとれない(当)物語は、女性に受け入れられないのだろうとボクは思った。


posted by なすぱぱ at 08:19 | Comment(0) | 本・小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする